カルマの法則と運命の関係

「カルマ」の法則という言葉があります。「因果応報」と言い換えても良いでしょう。これは過去における善悪のカルマ(業)が、現在において「幸福」や「不幸」の状態を作り出すというものです。

 

古来より「仏教思想」の定着したわが国ではこの思想が自然と受け入れられてきました。科学思想の広まった現代では「迷信」ととらえる人もおりますが、この発想法じたいはまだ多くの人の中に生き続けているようです。

では、このカルマの法則(因果応報)の思想は、私たちの運命にどのような影響を及ぼしているのでしょうか。これに関わるエピソードがありますので少し紹介しましょう。

これは50代の男性の事例です。その人は親の事業を引き継いだ人で、「商事会社」を経営していました。経営のほうは順調とまではいかないものの、なんとか経営できていたようです。しかしそのぎりぎりの経営にとっては会社の存続にかかわる大きな「事件」が発生したのです。

「こんな目に遭うなんて。これからどうしたらよいのでしょうか」

相談者の男性はとても落ち込んだ様子でした。聞けば、その男性は経営者にとっては恐るべき事態に陥っていたのです。驚くことに多額の「不渡り手形」をつかまされたとのことでした。経営者にとってこの「不渡り手形」は命取りになるほど危険なものです。これまで不渡り手形による「会社倒産」の話を私も何度か聞いたことがありました。男性の話を聞いていると、その大変な状況が伝わってきます。

「なぜ私だけがこんな目に遭うのでしょうか」

男性はこの言葉を何度か呟きました。私も最初は同情的に聞いていましたが、だんだんと考え方が変わってきました。実際に世間ではこのような「不条理」な話を聞くことがあります。「不渡り手形」だけではなく、知人の「保証人」になって多額の借金を背負わされたということもあります。一般的に考えればその男性は完全に「被害者」であり、何の落ち度もありません。悪いのは相手であり自分には責任がないと考えます。

しかし一見すると「不条理」に思える出来事でも、その背景には深い道理が存在することがよくあります。

「そうした目に遭わされるような、何か思い当たる節はないのですか」

私は念のために尋ねました。「まったくありません」。男性はそう言いました。その答えを聞いてから男性の「基礎データ」に細かく目を通しました。事件の起きた年をみると、その男性の「不和年」に当たっていました。

「不和年」というのは「琉球四柱推命」で名付けた運気の最も下降する「危険な時期」をいいます。「危険な時期」といってもその内容は人によって様々です。この年に「病気」が発生する人、「うつ病」などの精神疾患になる人、「妄想」にとらわれてストーカーになる人、「離婚」する人、「失業」する人、「交通事故」に遭う人などもいて、まったく千差万別といえるでしょう。

ただ、そこには共通する法則があります。その「不和年」においては「苦しい状況」が出現してくるということです。

この「不和年」がいつ頃巡るかは、「生年月日時」を計算すれば確実にわかります。その年が巡ると運命的には苦しい状況が必ず「発生」してきます。この「不和年」というのは、どのような「原理」の下で発生するのでしょうか。

この「不和年」は誰でも周期的なサイクルで巡るために、その背景にはたしかな運命の「原理」があることが想定できます。「琉球四柱推命」ではこの現象が人間の高等な「理性」の機能と深く関係していることを突き止めてきました。

「理性」の機能は人間に社会の「常識」「ルール」を守らせ、人間を人間らしくさせている「高等な機能」です。

高度な人間社会ではこの「理性機能」が健全に作用しなければなりません。ところが「不和年」という時期に入ると、この「理性機能」に障害が出ます。健全な「理性意識」を保てずに「妄想」に襲われたり、「怒り」に支配されたり、「うつ状態」に陥ったりします。この機能がマヒすれば人間はまともな「社会生活」を営めなくなるのです。こうした状態がさらに「悪化」すると、身体のどこかに「病気」を発生させたり、突発的な「事故」などを引き起こしたりします。

通常の人間はこの「理性機能」によって守られており、人間が「無意識」内にある「悪い衝動」「悪い情緒」に支配されないように、理性が守っているのです。ところが「不和年」に入るとこの「理性機能」の作用に「障害」が出るので、ある意味とても「危険な時期」といえるのです。

ここで「注意点」があります。この「不和年」に発生する現象は、すべてその個人の「潜在意識」の「歪んだ部分」から生じてくるということです。その年になると何か悪いものが「外からやってくる」というわけではありません。その原因となる「歪んだ深層心理」がその人の無意識の中に封じ込められていて、それが浮上して「現象化」しているに過ぎないのです。

たとえばこの年に「ストーカー」になる人がいます。その人は偶然に「ストーカー」になるのではありません。以前から自分の深層心理の中に「強い性衝動」を秘めていて、あくまでもそれが暴走して現象化しているに過ぎないのです。

またある人はこのような年に「うつ病」になります。これも偶然にそうなったというわけではありません。それ以前に「仕事」などの抑圧的な心理状態があり、ため込んだ攻撃性が内在化し、それが暴走して抑えきれなくなって「うつ病」に陥るのです。

そのときの相談者の男性も、こうした「不和年」に当たっていました。ですから私は相談者に対して「何か思いあたることはないのか」と尋ねたのです。この年に生じる現象が偶然に発生するものではないと私は知っていたからです。

「私が何か悪いことをしたのでしょうか」

相談者の男性はこうした「運命法則」があることを知りません。それは本人に自覚があろうとなかろうと、まったく関係ありません。私は相談者の男性に自分の過去を振り返ってみるように言いました。しばらく男性は沈黙していました。しかし数分後に何か思い出したように小さい声で言いました。

「ちょっとだけ思い当たることがあります」

私の予想どおり、その原因は男性の過去にありました。その男性は家業を継ぐ前に勤めていた会社で、自分の「営業」という立場を利用して「不正」を働いていました。仕事を発注する際に下請け会社から「高額のマージン」を受け取っていたのです。それは長年にわたっていたので、かなりの金額になったはずです。本来その職に見合うだけの「収入」は会社からもらっていたはずなので、これは職権的な立場を悪用した完全な「不正行為」でした。

こうした「不正の事実」は誰よりも自分自身が知っています。こうした事実は本人の「深層心理」の中に深く刻み込まれます。その事実を周囲が知らなくても、本人だけは確実に知っているものです。

「運命の法則」はこうした「不正行為」や他人に対する「悪意」などをすべて「整合化」させるように機能しています。ですからそれが「不正な行為」で得た報酬ならば、まったく同様な「不正な現象」のもとにそれを「反転」させるのです。

この男性の事例でいえば、ある時に突然、「不渡り手形」をつかまされ、自らが以前の会社に為したように「不当な金銭の奪われ方」をするというわけです。

「そうですか、わかりました」

男性はなんとなく理解したようです。こうした「運命の法則」は厳然として存在しています。昔からいわれる「因果応報」「カルマの法則」というのは、運命法則において確かに確認できるものなのです。

いまだに多くの人はこうした運命の厳しい法則があることを知りません。誰にもわからないからといって陰で「不正を働く人」がなんと多いことでしょうか。「不正行為」は法律によって裁かれるだけではありません。本当に不正行為を裁くのは、人間の心の中に存在する本当の「自分自身」=真我(アートマン)と呼ばれるものです。

その「真我」は運命の世界と密接に関係しており、自らのなす「行為」、自らの「価値観」「考え方」を深く「深層記憶」の底に刻み込んでいるのです。もしそれが「不正」に関する情報であれば、自らが形成した「不正の罪」を受けるべく「無意識」のうちに行動してそれを反転して「再現」させます。

それはすぐに自分の下に返ってくるわけではありません。運命の世界には大きなスケールの「時間」の流れがあるからです。ただそれも時間の問題に過ぎません。最終的には「周期性」の法則の下にカルマが反転し、どんな人も自らの行為の「結果」を自分自身で受け取るのです。

時間のスケールの大きさが運命の世界をわかりにくいものにしています。もし「悪意」「不正」がすぐに自分のもとに返ってくれば、人間はその法則をすぐに理解するでしょう。ただ、大自然の法則は人間の都合で成り立っているわけではありません。人間がそうした大自然の法則の下に生かされているのが現実です。

男性は言いました。「これからは自分の行為に責任を持ちたいと思います」

相談者の男性は自らの行為を恥じていました。彼は現実的な人ですから、当時の周囲の人がしていたように自らも為したのでしょう。誰もがしていたような「悪習慣」を男性は単に模倣しただけとも言えます。ただ「世間の常識」と「運命の法則」は必ずしも一致するものではありません。

本当の「法」というのは自らの内なる「心の奥底」に存在しているのです。それが「真の法」でしょう。それは現在の法律や時代の風潮、世間の習慣とは何の関係もありません。「自然の法」はあるときは厳然として人間の「行為」を裁きます。しかしあるときは寛容に人間の失敗を「許す」こともあるのです。「運命の世界」はこうした「カルマの法則」を組み込んで効果的に作用させ、私たち人間の真我の生き方を宇宙的な「調和」に向けて進化させていくのでしょう。


 

 

2019年09月28日