自殺は運命を変えられるか

「私、その時は人生に絶望していました。ですから・・・」

「琉球四柱推命」で人の運命を「占いカウンセリング」するという特殊な仕事上、時には非常に深刻な悩みを打ち明けられることがあります。

「自殺」に関しての相談はその中でも最も深刻なものでしょう。

「そうですか、自殺をしようとしたのですか」

このような深刻な相談はいつもそうですが、話を聞いている私自身も辛いものがあります。

「自殺は結局、未遂に終わりました。主人に発見されて助けられたのです」

ある中年の女性は過去のつらい体験を語ってくれました。それは彼女の心に「暗い影」を落としており、そのトラウマはいまだ消え去っていないように見えました。

「自殺」という言葉ほど悲しいものはありません。自らの人生を否定しそれを壊してしまう、とても悲しい行為です。あらゆる生物の中で最も高等であるはずの人間だけが「自殺」をするのです。なぜ人は自殺に走るのでしょうか。「失恋」「失業」「経済苦」「家族との不和」「病気」など理由はそれぞれあるでしょう。誰でも最初から自殺を考えているわけではありません。最初は順調であった人生が何らかの理由で行き詰まり、どこにも生きる方向性を見出せないときに人は過激な行為に走るのです。

では運命的に見て「自殺」とはどのような行為なのでしょうか。どのような「背景」があるのでしょうか。

第一の理由には本人の性格や心理構造に問題があることが多いといえます。自殺者の多くは自己抑制的な人が多く、きまじめな性格です。そうした性格のために日ごろからストレスを溜めやすく、またそれを上手に発散することができません。

そして第二の理由としては「運気の問題」があります。特に過去の人生の「カルマ」が発現する場合、原因もわからず精神的に追い込まれることがありますが、それが「うつ病」を発症させたり、時には「統合失調症」になったりします。

これらはいずれも潜在的な「心理構造」が原因である点で共通していますが、多くの運命パターンを見ていくと、このような「偏った心理構造」という原因が見えてくるのです。

「結局、自殺は失敗に終わりました。でも今は死ななくてよかったと思います」

先の女性はそう言いました。彼女だけではなく多くの人が同じようなことを言います。その際に私は言います。

「自殺は絶対にしてはいけません。誰も自殺をするために生まれてはこないのです。それは運命からの逃避です。どんな運命にも意味がある以上、自殺は許されないのです」

多少きつい言い方かもしれませんが、「自殺」は許されるものではありません。また運命的にみても意味のないものです。なぜなら人の運命はそうした「苦しい状況」をも踏まえて作られていくものだからです。人は必ずしも「幸福」になるためだけに生まれてくるわけではありません。「幸福」とは自らに与えられた運命をうまく「調和」させていった結果として得られる「果実」のようなものでしょう。その「果実」はすぐに得られるわけではありません。それは運命的な努力をしてきた「結果」として与えられるものなのです。

仏教の創始者、仏陀は「人生とは苦しみである」とはっきり述べています。もし人生がそのようなものであれば、「自殺」という行為は誤った行為であると言わざるを得ません。それは「人生は幸福になるためのものである」ということを前提としており、それに至れなかった反動としてなされる過激な行為なのです。では自殺というものが運命的にはどのような背景を持っているのか、それは運命にどのような「結果」をもたらすのかを考えてみましょう。運命の世界から見た自殺者の運命を以下に再現してみます。

「もうだめだ、こんな人生は耐えられない」

ある中年の男性は仕事上の行き詰まりから自ら死を選択しました。自殺者の多くが人生に絶望しており、自殺とはそこからの逃避的な手段に過ぎません。

あえてそうした手段を選択するには、自らの心境がその状況に耐えきれないほど疲弊しきっているからです。「これで私は楽になれる」。彼はそう思って自らの命を絶ちました。ところが彼には大きな誤算があったのです。多くの人は死をもって「すべての生が終わる」と考えています。それがただの思い込みであったとしたらどうでしょうか。

私は自らの経験から「死とは一過性のものに過ぎない」「それは本当の意味での死ではない」ということを知っています。自殺者の多くはこうした事実を全く知りません。ですから自殺という過激な行為に走れるのです。

もし自殺が人生の「終わり」ではなく、それが「新たな生」の始まりに過ぎないとしたら、自殺という行為を選択するでしょうか。死をもって人生を終えようと考えたその男性は死んだ瞬間にその事実を「悟る」でしょう。しかし時はすでに遅いのです。肉体が死んだ「瞬間」に彼の意識は身体的な次元を離れて「別の意識の次元」へとシフトします。

問題はそのあとです。もし彼の意識が「健全な意識」であれば何の問題も生じません。彼は「きれいなお花畑」や「迎えに来る親族」などを見ることでしょう。

ところが自殺者の多くは悩みに悩んでいたために、彼らの「心理構造」は絶望のために汚れ切っています。その働きは鈍くて「不活性」です。人の意識は死後にその状態に応じた世界に赴きます。ですから「心理器官」が汚れ切っていれば、それに応じた「苦しみの世界」が目の前に開けてくるでしょう。

身体に属する「運命機構」は心理器官の状態を「周期的に変化」させることで、意識が同じ状態に留まることを防いでいます。ですから生きていれば「辛い」こともありますが、「楽しいこと」もあるのです。しかし死んだ瞬間に彼の「意識状態」はそれまでの「運命機構」によって制限されていた意識の構造を破壊したために、彼の潜在的な意識の状態、つまり「死ぬ直前の苦しい心理」状況がすべてストレートに再現されるようになります。彼は死ぬことで苦しみから抜けられると思い込んでいました。それは大きな誤算だったのです。

彼は肉体の死によってよけいに「苦しい状況」を作り出してしまったのです。彼の眼前に死の直前に煩っていた苦しい心理状態が大規模に再現されます。それはまさに「地獄」と呼べる状況でしょう。それはどこかの「空間」に存在するのではなく、彼の内なる心理器官が映し出す「幻影」にすぎません。

ところが現前にそれを見ている彼にとっては本物のような、非常に「リアルな世界」に見えることでしょう。彼はそうした世界にあって何年も何十年も「苦しみ」続けます。そんな彼にも救いがないわけではありません。大自然の「運命機構」はじょじょに彼の心理器官の状態を変化させて、彼に自分の置かれている状況を「理解」させていきます。

実際に放出されていた心理器官の苦しい記憶が「燃焼」していくことによって、彼は少しずつ「本当の世界」を感じていくようになるのです。時間の流れによって彼はそうした世界を自らが「作り出している」ことに気づくでしょう。彼が本当に救われるのは「その瞬間」なのです。

運命の「実相」を悟った人はそれにふさわしい世界へと赴いていきます。結論からいえば、どのような人でも「救いの対象」になるでしょう。しかし大自然の運命機構が救い出してくれるまでは非常に「苦しい状態」で待ち続けねばならないのです。

多くの人は自殺によって苦しい運命から逃れられると思い込んでいます。それがただの「幻想」であり、それが運命をより「過酷なもの」にするとなれば「自殺」に対する考え方をすぐにでも改める必要があるでしょう。

「では、その先の運命はどうなるのですか?」一度でもそうした考えを抱いたことがある人は自殺した後の運命を知りたがるようです。以前、自殺に失敗したある主婦は私にそう尋ねました。私は言いました。

「自殺した後の運命はより過酷なものになります。運命的な背景でいえば、まず自殺した後の残存した苦しみを味わうでしょう。それだけでは終わりません。次に生まれる運命においてその償いをさせられるのです。それは自殺したことによって悲しませた家族、友人たちに対しての償いです。さらに身体を破壊したカルマとして、次の人生では身体的に何らかのハンディを負うでしょう」

運命の機構はその人の「心理状態」にふさわしい環境を実際に形成していきます。その人の「心理」が自殺するほど荒廃していて、それが修正されずに終わりを告げたとすれば、「次の運命」にそれを持ち込むのです。「次の人生」においてその心理状態にふさわしい「環境」が選択され、再び「同じような状況」が再現されます。それは「神の罰」などではありません。運命的な「試練のプログラム」として自らがそうした運命を選択するのです。

たとえば「失恋」によって自殺した場合、次の人生においてもまったく似たような「失恋」という状況が再現されるのです。また「破産」などによって自殺した場合、次の人生においても同様な「破産的な状況」が運命的に再現されるのです。

こうした試練はその人がこうした「逆境」をクリアできるまで、何度も繰り返されるのです。なぜならその人が自らのこうした「弱い心理」を克服しない限り、次の運命の「ステップ」に進めないからです。ですから自殺は何の解決にもならないし、それは余計に問題を大きくするに過ぎません。

「運命の世界」はすべての人に「公平」かつ「平等」に作られています。その世界は「脆弱な人間存在」を包含し、それを根本から鍛え直し、人を「有用な存在」へと変性させていきます。私たちの「魂」はその中で成長していく存在なのです。それがわかれば自殺を考える人はいなくなるのかもしれません。


 

 

2019年10月16日