「運命」とは何でしょうか。古今東西、人の運命については様々に語られてきました。私も運命を研究してきた者ですが、「運命」を一言でいえば「心で見る劇みたいなもの」と考えています。
これは以前から持論としている運命に対するアイディアです。「運命」に対する受け取り方は人によって様々でしょう。「運命」という意味の明確な規定はありませんし、またかなり漠然とした概念と言えるでしょう。
「運命」というものはその本体である「心」が作り出していく「心理劇」であるとも言えますが、人間はその「心理劇」に完全に埋没して多様な「役割」やその「意味」を学んでいく存在なのです。
「心」は現代においてかなり観念的に捉えられているようです。科学者の中には「心の存在」じたいを疑う人がいます。それは「実在するもの」ではなく、脳が作り出す「現象」に過ぎないと考えているのです。心は脳が作り出す「幻影」なのでしょうか。いや、私はそれを明確に否定できる「体験」を持っています。ですからこうした「脳現象説」は絶対に受け入れられません。こうした科学者でも私と同じ体験をすればそれが理解できるでしょう。
では、この「心」はどこに存在しているのでしょうか。「心」というものは目に見えるものではありません。しかしそれはたしかに「実在するもの」です。「実在」するからにはそれがどこかに「存在」しなければなりません。私はこの「心」がこの「物理的次元」とは異なる「次元空間」に存在すると考えています。それは粗雑な「炭素原子」で構成された身体脳とは異なり、人類のいまだ知らない「微細な次元」に存在すると考えます。
そして「運命」とはその実在する「心」が作り出してく「心理ドラマ」なのです。この「心理ドラマ」は非常にリアルであり、私たちの意識はそのドラマに「完全に同化」しています。「完全に同化」しているために、それが「心理ドラマ」であることに誰も気づきません。
「運命」の研究とはこうした多層的な運命を作り出す本体でもある「意識の研究」なのです。運命を作り出すこの意識を「潜在意識」といいます。この「潜在意識」は私たちの通常の意識の「下部構造」として存在し、一般には「本能」「欲望」「情動」として知られるものです。
私たちはこの「潜在意識」を普段はあまり意識することはありません。ですが「潜在意識」は私たちの「意識」を下部から突き動かし、「意識」に大きな影響を与える存在なのです。私たちが「自分自身」であると考える「意識」は、この「潜在意識」という大きな「下部構造」の上に作られた小さな「司令塔」のようなものでしょう。
その「司令塔」である自分自身の「意識」は生涯変わりません。この生涯変わらない意識を自己同一的な「アイデンティティー」と呼んでもいいでしょう。しかしその「下部構造」である「潜在意識」は時間の流れと共に常に変化していくのです。その変化には「周期的」な循環律があり、規則正しい「周期的な時間」の下で変化していきます。
運命はこの「潜在意識」の複雑な変化によって「千変万化」に変化していきます。人間の意識は常にこの影響を受けて、「実際の運命」も変化させるのです。いや運命だけではありません。その人の「性格」「気質」「人格」ですら時間の中で微妙に変化していきます。また「才能」「能力」なども変化し、さらには「外見的な容姿」ですらも変化させるのです。
すべての人にこうした動く「運命」というものがあります。これは人間の「宿命」ともいえるでしょう。こうした動的な「運命」が存在する以上、どんな人もこの「変化」を避けて通ることはできません。すべての人が自らの運命と「深く関わる」のです。
ある人は運命の中に「愛」を見出すでしょう。またある人は運命の中に「正義」を見出します。またある人はそこに「自然の偉大さ」を見出すのです。これらは人により様々です。そこに共通するのは人間という意味を超えた「普遍性」でしょう。私たち人間はこの「普遍的な世界」を目指して運命の「階段」を昇っていく存在なのです。
「運命の世界」で得た経験はすべて掛け替えのない経験として「自己の中」に収れんされていきます。「運命」とは経験の機会を与える「心理劇場」のようなものでしょう。私たちすべての人間がその「劇場」の出演者なのです。あるときは「父親」の役割であり、あるときは「母親」の役割であり、またあるときは「子供」の役を演じます。その中でも「主演」を演じたりすることがありますし、またあるときは「わき役」を演じるでしょう。その「心理劇」で演じられるすべての役に何か「重要な意味」が秘められています。私たちはすべての役を「交代」で演じることによって、その「心理劇全体」が持つ本当の意味を理解していきます。
「運命の世界」もこれと似たようなものです。すべての「人生」に意味があって「価値」があります。どんな人生でもそれが「無駄」になることはありません。「運命世界」はその様々なエッセンスを収れんしていくのです。
「運命」に関してはまだまだわからないことがあります。「宗教」「哲学」「科学」を下地として、これからも研鑽を積んでいかねばなりません。「運命の世界」は非常に幅広い「すそ野」を持つ世界です。そこには人間に関わる「すべての要素」が入り込んでいます。「運命の世界」を探求するには、これらの「絡み込んだ糸」を一つ一つ解いていかねばならないのです。
「運命の世界」は私たち人間が存在する以上、「未来永劫」続いていくでしょう。その「軌跡」で作られる学びの糸は運命の世界と深く関わりながら、最終的には「真実在の世界」と融合していくことでしょう。人間はその学びの過程に生きながら、一つ一つ自らの「生」を充足させていくのです。
すべてが「学びの機会」として与えられます。「運命」とはその機会を活かして自分流に再編していく「プロセス」なのです。私たち人間の心はそれを具現化していく「コーディネーター」なのです。「運命の世界」の本質は「心の遊戯」として存在し、あまりにも「リアルな夢」を私たちの眼前に映し出します。
運命がこのようなものであれば、とびっきり「楽しい幸福な夢」を見ようではありませんか。人がこうした「幸福な世界」を夢見ているとき、運命はその「本質」を垣間見せるのです。そして「運命」は私たちの心がその「心理劇場」を退席するとき、そのリアルな「心理劇」を終演させるのでしょう。