先祖崇拝の考え方とは

「先祖崇拝」ー沖縄では非常に盛んに行われてる伝統的な風習です。お正月やお盆には親戚が一堂に集まり仏壇の前で手を合わす、そんな光景をどこでも見ることができます。沖縄に生まれた人はそれが幼少期から行われているために何の疑問も感じません。なぜ「先祖を崇拝」するのか、どうして仏壇の前で祈るか、その答えはすぐには出てきません。

私も運命を研究するという仕事柄、よく「先祖崇拝」のことを尋ねられますが、そうしたことは「あくまで個人の裁量でやるべきです」と答えています。大切なのは先祖を敬う「敬虔な心」であり、家族の「安泰を願う心」なのです。そうした基本を踏まえていれば「細かな儀式」にこだわる必要はありません。では、この「先祖崇拝」の背後には何があるのか、それが私たちの運命をどのように左右しているのか少し考えてみましょう。

この間、ある主婦が訪ねてきました。50代くらいの年齢です。白髪交じりの髪にどこか生気のない顔、外見を見ても何か悩み事があるように見えました。

「最近、家族の仲がうまくいかなくて」「以前は仲良く暮らしていたのですが、何か原因があるのでしょうか」

こうした家族の悩みはこの女性の年齢では多いものです。「子供のこと」や「夫のこと」、あるいは「両親のこと」など、家族間の人間関係を保つことは「家庭の主婦」の肩にかかっているからです。また50代という年齢はそうした家族間の問題が「一番大きくなる時期」でもあるのです。子供の「進学」「就職」の問題、夫との「不仲」、「両親の介護」など家族に対する「悩み事」は尽きません。そうした家族の悩みを抱えた50前後の女性が「琉球四柱推命」の「占いカウンセリング」に来るのです。

「まずは時期的な流れから見ていきましょう」「以前と違う場合、そのほとんどの原因が運命の周期的な変化にあります」

この女性は家族の仲が「急に悪くなった原因」をあちらこちらと探し求めていました。以前は何の問題もなかった家族がどうしてこんなに揉めるようになったのか「不思議」に思っているようです。

このような「運命パターン」のほとんどが運命の「周期変化」によるものです。「四柱推命」での大きな「運命周期」は約10年ごとに変化していきます。「周期変化」は人間の「深層心理」を変化させて「違う人格」を作り出します。

たとえば以前は「おとなしかった人」が急に「気難しい人」になったり、「生まじめな人」が「不良っぽく」なったりします。また反対に「粗暴だった人」が急に「優しくなる」こともあります。こうした「人格の変化」は大きくは10~20年ごとに生じていくのです。ですから人格が生涯にわたり「変わらない」と考えるのは、単に私たちの「思い込み」にすぎないのです。この女性の場合もやはりこのような「運命パターン」に入っていました。私はこの女性にそうした「運命の構造」があることを説明しました。

「家族が急に揉めるようになったのはやはり運命の周期変化にあるようです」「以前の家族は平穏な運気にありましたが、現在は厳しい周期に入っています」「それが家族が急に揉めるようになった直接的な原因です」

「そうですか」この女性は一応肯きはしたものの、半信半疑という感じでした。この女性には「先入観」があり、それが彼女の理解を妨げていたのです。

「先生、すみませんが私にそのような難しい運命の話はわかりません」「しかも先生の話は私がこれまで聞いてきた話とはあまりにも違います」

この女性は熱心な「先祖崇拝の信者」でした。人の運命は「自分の意思」ではなく「ご先祖の意向」によって決められていると考えているようでした。つまり「幸福」も「不幸」も自分でつくるものではなく、「先祖や神々」の世界で取り決められている、彼女は真剣にそう考えていました。その考え方に従って彼女は「先祖崇拝」に関することをいろいろとやってきたようです。ここ沖縄では彼女のような人はごく一般的でしょう。「先祖崇拝」の盛んな沖縄ではこうした「宗教的な素地」があり、それが当然のように考えられているのです。

「こうした運命の話がすぐに信じられないのは無理もありません」「しかしこれには長年にわたる運命研究の裏付けがありますので、いい加減なものではありませんよ」

運命は「個人の原因」で作られるー私にはそうした「確信」があります。それは数万人の運命を検証して得た「結論」です。事実、いろんな人の運命を予測して「高い確率」で的中させてきたということでも証明できるのです。ですから「琉球四柱推命」では自信をもってこのような内容を説明できるのです。

「運命とは基本的に個人の心が作り出していくものです」「たとえば同じ親が育てた兄弟でも性格が全然違うことがわかると思います」「人には生まれた時から一人一人に運命があるということなのです」

運命は一人ひとり異なるものーそれが「運命の基本」です。そして運命は「自分自身」で作り出していくものです。こうした人の運命を「構造的」に作り出す自然界の原理があり、人はすべてこうした「法則」の下に生かされている存在なのです。現代人が考えるように「遺伝」「環境」だけから運命が作られるわけではありません。私は女性にこうした「運命の世」界があることを説明していきました。

「うーん、そうですか。たしかにそのようなことがあるのかもしれませんね」「だから先祖のことを一生懸命やっても何も変わらなかったのですね」

この女性は「先祖崇拝」を熱心に行っていました。その時期はちょうど家族に「もめ事」が始まった時期と重なっており、「不安の代償」として先祖崇拝を一生懸命続けてきたのです。

しかしそれでは何も変わりませんでした。もし「不幸の原因」が本当に先祖にあれば何か「劇的な変化」が起きていたのかもしれません。しかし私がこれまで見てきた「不幸の原因」はその多くが「個人の運命構造」そのものにあり、「先祖」とは直接関係ありませんでした。もし「先祖」のことで不幸が生じるのであれば、「琉球四柱推命」の「占いカウンセリング」の予測はほとんど外れてしまうでしょう。なぜなら「先祖の意思」は誰も読めないからです。

「では先生、先祖崇拝は何の意味もないのですか?」

女性はどこか悲しそうな表情でそう聞きました。自らのやってきたことを無駄にしたくない、そうした強い想いがあるのでしょう。

「もちろん無駄ではありませんよ。先祖であれ何か信仰するというのは大事なことです」「間違っていけないのはすべて先祖への祈りだけで解決できると考えることです」「祈りよりも先に実際に行動して問題を解決する、家族であれば親睦を図るように努力するのが先です」「祈りはそれに対する補助的なものとして考えたらよいでしょう」

「先祖崇拝」で家族の問題ごとは「解決できる」と女性は真剣に考えていました。「ご先祖様」は彼女のそうした「態度」を受け入れはしないでしょう。なぜならそれが「自己本位な願い」であることをご先祖様は知っているからです。先祖に「願い事」をする前にしなければならないことがあります。それは人として与えられた「意思」「知恵」をしぼって懸命に「努力する姿勢」です。

家族が「不和」であるならばその「原因」がどこからくるのか、まずそれを懸命に考えればよいのです。そしてその原因を「取り除く努力」をしていけばよいのです。必要であれば周囲の「手を借りる」のも許されるでしょう。そうした懸命の努力をしたうえでの「願い事」であれば、それは「ご先祖」にも受け入れてもらえるでしょう。

「そうですか。そもそも私の中に自分のことばかり考える都合の良い考え方があったのですね。なんとなく理解できます・・・」

女性は言いました。これまでの態度が間違っていたことにようやく気付きはじめたようです。

辛いときに誰かに「頼る気持ち」は理解できます。ただそれが現実から目を背ける行為であったとしたら、それは何の解決にもなりません。「大事」なことは問題を解決していく「姿勢」であり、そこから逃げない「態度」なのです。

「では私はこれから運命を良くするために何をしていったら良いのですか。先祖崇拝は止めるべきですか」

私は言いました。「先祖崇拝をすぐに止める必要はありません。それがあなたの心を落ち着かせる宗教的な信仰の代わりになっているからです。しかしそればかりに頼ろうとする心はすぐにでも直さねばならないでしょう」。

女性は静かに肯きました。彼女の心の中に運命を「見直し」てみようという意思が芽生え始めていました。そこに気づけば未来にむかって彼女の運命は「軌道修正」していくでしょう。

ただ彼女がそのことに気づいても、すぐに運命が変わるわけではありません。なぜなら彼女が「現在見ている運命」は彼女が「過去に作り出したもの」だからです。

運命の世界には大きな「周期性」があり、現在作り出した「原因」が未来の「結果」を生じさせます。反対に考えれば、「現在の運命」は「過去の行為」から作られているのです。ですから人がすぐに運命を変えようと「意図」してもすぐには変えられないのです。しかし「変える意思」を持った時点で人の「未来の運命」は少しずつ変化を始めているのです。人がそれを現実のものとして「実感する」のはしばらく先になるでしょう。

「今日はいろいろとありがとうございました。本当に勉強になりました。これから自分なりに考えていろいろとやってみます」

彼女は帰り際にそう言いました。これまで「先祖崇拝一辺倒」だった彼女の頭の中に新しい「ビジョン」が出現したのです。彼女は自分なりに人生を模索していく、そう言いました。それが大事なことなのです。

「これでなければならない」「こうしなければならない」という固定されたビジョンは運命を誤った方向に向かわせることになります。世界中で起きている「宗教」「人種」「国家」などの争いも、こうした独善的な「価値観」があるように思われます。しかし「運命の世界」はもっと柔軟であり、様々な「価値観」「考え方」があることを私たちに知らせてくれます。

「先祖崇拝」ーそれは先祖を敬いその「加護を願う」という点では有効な方法でしょう。しかしそれが「唯一の宗教」のような存在になり、それが人の「人生を支配するとき」に運命は誤った方向に向かいます。

運命を作り出す本体は「自分自身の心」であり、それはとてつもなく大きな「運命法則」の中で生かされています。人はその中に在って人生の「喜び」「悲哀」「試練」を経験しながら互いに成長していく存在なのです。「運命の世界」は時に人の成長を助け、ときには厳しく矯正しながら私たち人間を育てていきます。「運命」がこのようなものであるならば、私たち人間はもっと肩の力を抜いて自己の「生き方」そのものをもっと「自然なもの」にしていかねばならないのでしょう。


 

 

2019年10月10日